2012/04/19

8.ムサシヤ



1885年(明治18年)2月8日。東京市号が最初の官約移民946名を乗せて出港。
この中に、シャツの仕立て職人:宮本 長太郎が乗船していたようである。
今のように、「一旗揚げたる!」ではない。官約移民なのである。
政府の「3年間で400円稼げる」という謳い文句で募集され、
3年間サトウキビ畑などで、奴隷のように働くわけである。

1895年(明治28年)に 長男:孝一郎が誕生。

1904年(明治37年)にムサシヤ創業。
場所はホノルル・ノースキング330番地。
生地の量り売りや、オーダーメイドでシャツの仕立てを行なっていたようだ。
どうやら、長太郎が武蔵の国出身なのでムサシヤらしい。
だが…苗字がミヤモトだからムサシヤなのでは?という噂もある。
この年、長男:孝一郎は、「教育は日本で」と、日本に送られる。

1908年(明治41年)179番地に移転。

1915年(大正4年)創業者:長太郎他界。
孝一郎はハワイに戻って店を継ぐことになる。

1920年(大正9年)孝一郎の発注ミスで大量の在庫を抱え経営危機。
<孝一郎は日本で育ったため、英語は不得手。イギリスに発注した生地が届かず
まだかと催促したら それも発注と思われ大量の在庫を抱えることになった。>

起死回生を狙い、5月4日、ホノルル・スターブルテン紙に新聞広告掲載。
<大量の生地在庫を生地のままで売り払うのは無理と、縫い子を雇いシャツにしたが
それでもなかなか売れなかった。債権者の一人が広告を出すことをすすめ、
広告代理店チャーズ・R・フレージア社を紹介される。そこで、新聞社にも在籍する
ジョージ・メレンと出会う。彼は孝一郎のヘンな英語を広告にそのまま使うことを
すすめる。結局その広告は、孝一郎のヘンな英語と下駄を履いた笑顔の日本人という
組み合わせだった。>

広告が効果を発揮。一躍有名店となる。この広告は週一回6年間も掲載。
<注文はアメリカばかりか、世界中から舞い込み、ハリウッドの大物たちまでもが
ミヤモトの仕立てた絹製のシャツやパジャマを注文してきた。
そして、雇った縫い子の一人と結婚する。名前はドロレス (not 泥レス)。>

1930年(昭和5年)株式会社化。

1934年1月(昭和9年)輸入商社の藤井順一郎商店に店を譲り、自らはサウス・
キング191番地に移ってムサシヤ・ザ・シャツメーカーを再始動。
<恐らく前年のアメリカ大恐慌が影響しているのであろう。>
<買い取った藤井順一郎商店はムサシヤ・ショーテン・リミテッドとして同じ場所で
営業を継続し、1935年6月28日のホノルル・アドバタイザー紙に「”アロハシャツ” 
きれいな仕立て、美しいデザイン、晴れやかな色、既成品と注文品…95セントより」
という広告を出す。これが、アロハシャツという言葉が文字として残された中で最も
古いとされているものである。>

 


1968年(昭和43年)73歳になった孝一郎 引退。店も閉鎖。カラカウワ・アベニュー
2164に移り、90歳まで生きたそうだ。

おそらく、宮本孝一郎は、オーダーメイドのアロハシャツを作った初めての人物。
アロハシャツを語る時に、ムサシヤは絶対に外せない。
アロハシャツが世界中に知れわたることに貢献した人物は
この宮本孝一郎とデューク・カハナモクの二人だと言っても過言ではない。
そのデューク・カハナモクが亡くなった年と孝一郎が引退した年が同じ1968年。
アロハシャツといえば誰もがイメージするテロテロの派手な柄のシャツ。つまり
レーヨンのアロハシャツ。それもポリエステルの台頭でこの頃に消えている。

さて、長文になってしまったが、最後に。
孝一郎のヘンな英語がムサシヤを、そしてハワイのシャツを有名にしたわけだが、
代表的な広告文を下記に掲載する。
「ムサシヤ・ザ・シャツメーカーは、衣料品を売るだけでなく、春到来のお知らせを
させていただきます。ああ、なんと美しい春でしょう。
英国のシャツ地が到着しました。春の穏やかな足音が聞こえますが、ハワイは冬が
静かに去っていくのもほとんどわかりません。でも、胸の内は違うのです。仕事
以外のことをするのがとても楽しくなり、恋人にもおおらかな気持ちになれます。
なんて不思議な天候なのでしょう。当然、新しいシャツが欲しくなるのです。」

本人は大真面目なのだが…やはり、あの似顔絵といいこの文章、ムサシヤの名前の
由来や奥さんの名前すらフザケてると思ってしまう。やはりムサシヤ恐るべし…。