2012/05/10

11.ARAKAWAS


19歳のゼンパン・アラカワが、ワイパフにあるサトウキビ農園で "飲水配給係" 
として働くために沖縄から移住してきたのは、1904年(明治37年)のことだった。
その後アラカワは1台の足踏みミシンを手に入れ、既製のシャツやズボンをほどいては縫いもどすという独学で、縫製を自分のものにした。
そして、食材を運ぶためのカウカウバックや、足袋などの商品の他に、パラカのワークシャツを1枚75セントで売り出した。
アラカワが経営する仕立て屋は、後にハワイ最大のデパートとなった。


1909年(明治42年)〜1995年(平成7年)4月2日

2012/05/03

10.PALAKA SHIRT




19世紀初頭、プロセイン軍の軍服であった紺青色のコートが、イギリス人にも
好まれ広まった。そう、フロックコートのこと。
常装用には、その色でチェックの上着も流行ったようだ。
サンドイッチ諸島を訪れたイギリス人の船乗りが、その上着を着ていたことは
容易に想像できる。
そしてハワイ人のあいだで、フロックという言葉はパラカに変わり、パラカは、
しばらくしてチェック柄の織綿布地のことを意味するようになる。

かってハワイで働く日系移民労働者は、藍染めの分厚い綿生地のアヒナジャケット
や、同じく藍 × 白のパラカ柄の上着を着てプランテーションで働いていた。
藍染めは防虫効果もあり農作業に適していたらしい。
藍染めの分厚いジャケットってGジャン?・・・
まぁデニムっちゃーデニムなので…そう。
でもチェック柄であるPALAKA生地は、日本人にとって絣(カスリ)柄に思えた
ようで、特に人気があった。
その人気は日本人のみならず、ハワイ全土で人気を博し、アロハシャツ以前の
ハワイのオリジナルシャツとして定番となった。